鹿児島市の甲突川沿い、玉江橋の近くを歩いていると、住宅街の一角にひっそりと石碑が建っています。
刻まれているのは「永吉水車機織場跡」の文字。
現在は周囲一帯が住宅地となっていて、水車が回っていた当時の面影を感じさせるものはほとんどありません。
それでも、この場所は薩摩藩が近代的な産業を取り入れていった歴史を伝える、ちょっと興味深い場所です。
永吉水車機織場跡

永吉水車機織場は、島津斉彬の時代に設けられた水車を動力とする機織場。
当時の薩摩藩では、海外の技術を取り入れながら産業を近代化しようとする動きが進められていました。
その一環として、永吉と田上に水車館が設けられ、水力を利用して機織機を動かし、綿布などを生産していたとされています。
永吉水車館は安政5年(1858年)に建設されたとされ、操業は安政年間から、磯に洋式の機械紡績工場ができるまでのおよそ10年間続きました。
つまり、まだ蒸気機関などが本格的に導入される前の時代に、川から得られる水の力を工業の動力として利用していたわけです。
現在の鹿児島からはなかなか想像しにくいですが、ここでは水車を使って「機械で布を織る」という、当時としては新しい取り組みが行われていました。
水車を動かしていたのは石井手用水
永吉水車館では、甲突川周辺の水を利用した石井手用水の水が動力として使われていました。
水の流れによって水車を回し、その力を機械へ伝えて機織りを行うという仕組みです。
水車そのものも、工場の建物も、現在は残っていません。
しかし周辺には、かつて永吉水車館が利用した石井手用水の水路跡とされる石橋なども残されています。
薩摩藩が水の力を利用して産業を動かそうとしていたことを考えると、現在の静かな住宅街からは想像できないような風景が、かつてこの周辺に広がっていたのかもしれません。
石碑の側面には「皇紀二千六百年記念」

正面だけでなく、横から見てみると別の文字が刻まれていることに気付きます。
「皇紀二千六百年記念――」
その下の文字はかなり擦れていて、訪れた際には判読できませんでした。
「皇紀二千六百年」は昭和15年(1940年)にあたり、この石碑はその年に建てられたものとされています。
江戸時代末期に始まった水車機織場の歴史を、昭和初期になって石碑として残したもの。
こうして見ると、この一基の石碑そのものにも、また別の時代の歴史が刻まれています。
現在の水車機織場跡

解説板を読むと、この場所で水車を利用した機織りが行われていたことや、薩摩藩の近代化との関わりについて知ることができます。
ただし、少し注意したいのが「現在石碑がある場所=当時の水車館が建っていた場所」ではないということ。
現在の石碑・説明板の場所は玉江橋近くですが、実際の水車館があった場所は、石碑より少し下流にある永吉公民館周辺と推定されています。現在、その場所に水車館の遺構は確認されていません。
そう考えると、目の前にあるのは「水車機織場そのもの」ではなく、失われた産業遺産の存在を伝える記念碑ということになります。
住宅街に残る、薩摩藩近代化の痕跡
現在は完全に住宅地となっている永吉周辺。
市道沿いにポツンと建つ石碑だけを見ると、「ここに何があったんだろう?」と思ってしまうほど、かつての姿を想像するのは難しい場所です。
しかし、この一帯では江戸時代末期、流れる水の力を利用して機械を動かし、布を生産していました。
そして、こうした水車を利用した機織りの試みは、その後の薩摩藩による洋式工業・近代化へとつながっていきます。鹿児島ではその後、磯に洋式の機械紡績工場である鹿児島紡績所が建設され、日本の近代紡績の発展にもつながっていきました。
今では住宅街の片隅に残る一基の石碑。
「跡」と呼ぶにはあまりにも何も残っていませんが、そこから少し想像を膨らませてみると、幕末の鹿児島で水車が力強く回り、機械が動いていた時代が見えてきます。
派手な遺構ではありませんが、こういう「石碑しか残っていない史跡」を訪ねてみるのも、歴史スポット巡りの面白さのひとつです。
訪問日:2022年2月


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