【鹿児島】更地になった学校跡に残る一基の碑――鹿児島西高等学校閉校記念碑

鹿児島市にあった鹿児島県立鹿児島西高等学校。

平成24年(2012年)3月31日に閉校した高校ですが、その跡地を訪ねてみました。

現在、かつての校舎などはすべて姿を消し、跡地は鹿児島女子高校のサッカーグラウンドや鹿児島工業高校のグラウンド、福祉センター「いしきらら」などとして利用されています。

そんな跡地の一角に残されているのが、鹿児島西高等学校の閉校記念碑です。

鹿児島西高等学校の沿革

鹿児島西高等学校のルーツは、昭和18年(1943年)に開校した鹿児島県立履正中学校の夜間部までさかのぼります。

その後、昭和39年(1964年)に鹿児島県立日新高等学校として新たに発足。

そして昭和43年(1968年)に「鹿児島県立鹿児島西高等学校」と改称されました。通信制も引き継がれ、長く定時制・通信制を中心とした高校として歩んでいます。

大きな転機となったのが昭和51年(1976年)。

この年に全日制商業科が発足し、4学級の募集が始まりました。

その後、商業科の学級数を増やしながら多くの生徒を送り出しましたが、平成15年(2003年)には定時制・通信制課程が鹿児島県立開陽高等学校へ移行。

鹿児島西高は単独の全日制商業高校となりました。

しかし、少子化などによる高校再編の流れの中で、平成22年(2010年)に鹿児島県立甲陵高等学校との合併が決まり、生徒募集を停止。

そして平成24年(2012年)3月31日、鹿児島西高等学校は閉校しました。

正面玄関にあった「校訓」の石

鹿児島西高等学校の閉校記念碑を正面から撮影。
鹿児島西高等学校の閉校記念碑

閉校記念碑は、当時の正面玄関にあった「校訓」の石を加工して制作されたものらしく

碑には、

「昭和51年4月開校」

「平成24年3月閉校」

といった学校の歩みが刻まれています。

そして「卒業生 6,834名」とも刻まれています。

昭和51年に始まった全日制商業科から、平成24年の閉校まで。

36年間の全日制鹿児島西高の歴史の中で、6,834名もの卒業生を送り出したことが分かります。

平成25年(2013年)3月には、閉校後に同窓会によってこの記念碑が建立されました。

閉校記念碑に残されたもの

鹿児島西高等学校閉校記念碑の他に碑文や少女像なども配置されている
閉校記念碑以外にも

閉校記念碑のある敷地には、碑だけではなく碑文や少女像なども配置されています。

単なる「学校が閉校しました」という記録だけではなく、長い学校生活を送った卒業生たちにとっての母校を、後世に残すための記念碑になっています。

学校の建物そのものは失われても、こうした記念碑が残ることで、ここに鹿児島西高等学校という学校が存在していたことを知ることができます。

なお、同窓会のサイトでは、この記念碑について「西高跡地(鹿児島工業グランド側)に移設」されたものと紹介されています。

西高の校舎跡?

閉校記念碑の横にある校舎のような建物。
校舎が残ってる??

記念碑の横に校舎っぽい建物がありました。

最初に見たときは、鹿児島西高等学校の校舎の一部が残されているのかと思いました。

しかし、現在の利用状況などから考えると、西高の校舎そのものではなく、鹿児島女子高校や鹿児島工業高校の部室・用具倉庫、あるいはグラウンド管理関係の建物などと思われます。

少なくとも、今回の訪問では「西高の校舎が残っている」と確認できるものではありませんでした。

西高跡地は現在どうなっている?

鹿児島西高等学校が閉校した後、跡地は整理され、現在は当時の校舎などを見ることはできません。

跡地には鹿児島女子高校のサッカーグラウンドや鹿児島工業高校のグラウンド、そして福祉センターの「いしきらら」などが入っています。

そのため、現在の風景だけを見ると、ここにかつて高校があったとは分かりにくい場所です。

最後に残った「西高の証」

鹿児島西高等学校は、夜間課程を起源とし、日新高校を経て鹿児島西高校となり、全日制商業高校としても多くの卒業生を送り出しました。

そして平成24年に閉校。

現在は校舎もなくなり、跡地の風景も大きく変わっています。

そんな中で残されたのが、この閉校記念碑です。

​今では姿を消した鹿児島西高等学校。

その存在を伝える数少ない「西高の証」は、今も静かに、この場所で母校の歴史を見守り続けていました。

訪問日:2022年2月

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