鹿児島市下福元町。
ここに、かつて「清泉寺」というお寺がありました。
現在は廃寺となっていますが、跡地には石垣や墓、そして岩肌に彫られた磨崖仏などが残っています。
今回は、この清泉寺跡と磨崖仏を見に行ってきました。
……といっても、最初からすんなり見つかったわけではなく、ちょっとした探索になりました。
まず目に入った巨大な観音様
清泉寺跡を探している途中、まず目に入ったのがこちら。

山の中に突然現れる、巨大な金色の観音菩薩像です。
かなり大きく、近くまで行って見上げると迫力があります。
この観音様は「清泉寺観音」、または「谷山大観音」と呼ばれているそうです。

名前に「清泉寺」と入っていますが、今回探している清泉寺跡とは別のもの。
観音菩薩像の足元は「清泉寺観音堂」という納骨堂になっています。

入口には8体の仏像が並んでいました。
さらに近くから見上げてみると、その大きさがよく分かります。

高さは33mもあるそうで、かなりの大きさ。
金色の塗装は、長年の風雨にさらされているためか、ところどころ剥がれていました。
見た感じではFRP製のような造りです。
巨大観音に驚きつつも、今回の目的はここではありません。
まずは別の磨崖仏を発見
さらに探していると、こんな木の板を発見。

この先に磨崖仏があるらしい。
案内に従って進んでみます。
……が。

ものすごい藪です。
立ち入るのもちょっと嫌になるくらい草が生い茂っています。
蜘蛛の巣を払い、藪をかき分けながら進みます。
寺院としての姿は失われていますが、岩や石に刻まれたものが、かつてここにあった清泉寺の存在を今に伝えています。
「マダニいたら嫌だなぁ……」
などと考えながら進んでいくと、突然、崖のような岩肌が現れました。
そして、その岩肌には――
藪の中から突然現れる金剛力士像

阿形と吽形、2体の金剛力士像が並んで彫られています。
大きさは1~2mほどでしょうか。
藪の中から突然現れるので、かなり印象に残ります。
ただ、見たところ現在はあまり手入れされていない様子。
柵などもなく、文化財として大切に管理されているという雰囲気ではありませんでした。
「この辺から寺跡の敷地内なのかな?」
なんてことを考えながら周囲を見ていると、川を挟んだ向こう側にも、岩肌に何か彫られているのが見えました。
奥にもまだ磨崖仏があるようです。
藪の中をさらに探索
向こう側へ行ける道はないか探していたら、藪に埋もれた車の轍のような道を発見。

「お、この道から行けるのでは?」
と思い進んでみましたが……。
見事に行き止まり(笑)。
ここじゃなく別の場所から回り込む必要があるようです。
正式な見学ルートを発見
いったん戻って周辺を探してみると、ようやくそれらしい案内を見つけました。
産業道路沿いにあるホームプラザナフコ谷山店の裏側から細い道へ入ったところに、地元の人が使っているような道があります。
そこに「清泉寺跡」の案内表示がありました。

さらに進むと、こんな看板が。

こちらが正式な見学ルートのようです。
さっきまで藪をかき分けていたのは何だったのか……。
清泉寺跡へ向かう
案内に従って進むと、細い下り坂があり長太郎焼の窯元が見えてきます。
さらに進んでいくと、清泉寺跡についての案内が見えてきました。

ここから先が、清泉寺跡みたいです。
清泉寺はどんなお寺だったのか
清泉寺は曹洞宗の寺院で、本尊は高さ約2.7mの阿弥陀磨崖仏。
百済の僧・日羅上人が開いたと伝えられています。
ただし、日羅上人の開山というのは古い伝承で、現在の清泉寺の実際の再興には、応永年間(1394~1427年)の覚卍和尚が関わったとされています。
そして明治2年(1869年)の廃仏毀釈によって廃寺となりました。
現在は寺の建物こそありませんが、石垣や墓、五輪塔、磨崖仏などが残っています。
藪に埋もれた清泉寺跡
案内板の先には、古い石垣がありました。

寺院跡の石垣でしょうか。
さらに進むと、金網のフェンス扉があります。

出入りは自由になっているので、ここからさらに奥へ進みます。
そして、またしても……。

藪です(笑)。
清泉寺跡、なかなか手強い。
岩肌に残る小さな磨崖仏
そんな藪の中を進んでいくと、岩肌に小さな磨崖仏を発見。

さらに周囲を探すと、岩肌に文字が刻まれた場所もありました。

仏像の頭だけが残っていて、本体部分は失われています。
廃仏毀釈の影響で破壊されたものなのか、詳しいことは分かりませんが、こうした痕跡が残っているのも清泉寺跡ならではです。
そして、こちらには顔のない阿弥陀如来像。

長い年月の間に傷んだのか、あるいは人為的に壊されたのか。
今となっては分からないものも多そうです。
覚卍和尚の墓
さらに進むと、覚卍和尚のお墓があります。

覚卍和尚は、応永年間に清泉寺を再興したと伝えられている僧です。
清泉寺跡には、こうした歴代の関係者の墓も残されています。
お墓の周囲にも磨崖仏
覚卍和尚の墓の周辺にも、岩肌に仏像が彫られています。

寺院があった頃には、今よりもずっと多くの仏像や石造物が、この一帯に存在していたのでしょう。
石段の遺構
奥の方には、石の遺構らしきものも残っています。

そして、その先にも古い石段。

かなり荒れていて、もはや普通の「階段」と呼ぶのも難しい状態です。
苔や草に覆われ、石もガタガタ。
それでも、ここにかつて寺院が建っていたことを感じさせる遺構です。
島津久章の墓
清泉寺跡で特に目を引くのが、この大きな五輪塔。

これは島津大和守久章の墓です。
五輪塔と呼ばれる形式で、かなり大きなもの。
その周囲には、久章とともに亡くなった家臣たちの墓も残されています。
島津久章は垂水の新城島津家の当主で、正保2年(1645年)にこの清泉寺で亡くなりました。

鹿児島市の説明では、久章は島流しの命を受けたものの従わず、清泉寺へ移された後、上意討ちにあったとされています。
そのため、この場所は単なる古寺跡ではなく、島津家の歴史を語る場所でもあります。
川の向こうにも磨崖仏
そして、先ほど金剛力士像を見つけたときに、川の向こう側に見えていた磨崖仏。
ようやくこちら側から見ることができました。

手前にあるのが「妙有大姉磨崖仏」。
奥にあるのが「在家菩薩磨崖仏」です。
金剛力士像と同じように、岩肌そのものに仏像が彫られています。
最初は川の向こう側に見えていたものですが、正式な見学ルートを進んでくることで、こちら側から確認することができました。
「清泉寺跡・磨崖仏」という場所
清泉寺跡には、現在もたくさんの痕跡が残っています。
寺院の石垣。
崩れかけた石段。
墓や五輪塔。
そして岩肌に残された磨崖仏。
一方で、全体的にかなり藪が多く、見学用と思われる木製ベンチも草に埋もれていました。

個人的には、もう少し整備されていてもいいのでは……と思ってしまう場所です。
鹿児島市指定の史跡でもあり、それだけに少しもったいなく感じます。
清泉寺の名の由来? 湧き水
最後に、近くには水汲み場もありました。

この湧き水は、飲み水や焼酎造りにも使われたといわれています。
そして、よく見ると水汲み場の周辺にも岩肌に何か彫られています。
ここにも磨崖仏らしきものが。
寺の名前「清泉寺」も、この清らかな湧き水と関係があるのかもしれません。
まとめ
今回は鹿児島市下福元町にある、清泉寺跡と磨崖仏を見てきました。
最初は案内を頼りに藪の中へ入り、金剛力士阿吽像を発見。
そこからさらに磨崖仏を探そうとして、藪に埋もれた轍を進んで行き止まりになるという寄り道をしつつ、ようやく正式な見学ルートを発見しました。
清泉寺跡そのものも、石垣や石段、墓、五輪塔などが残り、さらに岩肌には数多くの磨崖仏が残されています。
特に印象に残ったのは、藪の中から突然現れる金剛力士像。
そして、大きな五輪塔が残る島津久章の墓。
ただし、かなり藪が深い場所もあるので、訪れる際は足元や周囲に十分注意したほうがよさそうです。
今回は見つけられたものだけでもこれだけありましたが、藪の奥には宝剣等の磨崖仏があるらしいです。
そんな「まだ何かありそう」な感じも含めて、なかなか面白い史跡でした。
訪問日:2016年7月


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