洋画家・黒田清輝の誕生の地を訪ねて

鹿児島市東千石町、高見馬場周辺にある「黒田清輝誕生の地」を訪ねました。

黒田清輝といえば、日本の近代洋画を代表する画家の一人。

そんな人物が、実は鹿児島の高見馬場で生まれています。

現在は街中のため、当時の建物などが残っているわけではありませんが、誕生の地を示す石碑や解説板が設置されています。

日本を代表する洋画家・黒田清輝

黒田清輝は、1866年(慶応2年)に鹿児島の高見馬場で生まれました。

幼少期に伯父の黒田清綱の養子となって上京し、1884年(明治17年)には法律を学ぶためフランスへ留学。

ところが、フランスで西洋美術に触れたことで画家を志すようになり、1887年(明治20年)からはフランスの画家ラファエル・コランに師事して本格的に洋画を学びました。

1893年(明治26年)に帰国すると、白馬会を結成。

その後、東京美術学校の洋画科教授などを務め、日本の西洋画教育にも大きな影響を与えました。

代表作として「湖畔」や「読書」などが知られ、日本の洋画史を語るうえで欠かせない人物となっています。

黒田清輝誕生の地

洋画家 黒田清輝誕生の地の石碑
洋画家 黒田清輝誕生の地の石碑

「洋画家 黒田清輝誕生の地」と刻まれた石碑。

現在は周囲にビルや道路が並ぶ街中ですが、ここが黒田清輝の生まれた場所だそうです。

黒田清輝誕生地の解説板
黒田清輝誕生地の解説板

石碑の近くには、黒田清輝の生い立ちや年表などを紹介した解説板もあります。

生まれてからフランスへ渡り、画家としての道を歩み、日本の洋画界を代表する人物になっていくまでの経歴がまとめられています。

桜島大噴火を描いた黒田清輝

黒田清輝と鹿児島を語るうえで、もう一つ忘れられない出来事があります。

それが、1914年(大正3年)に発生した桜島の大正噴火です。

大正噴火では大量の火山灰や軽石が降り、桜島と大隅半島の間の海峡を溶岩が埋め、桜島が大隅半島と陸続きになるほどの大規模な噴火となりました。

このとき黒田清輝は鹿児島に帰郷しており、噴火の様子を描いています。

現在、鹿児島市立美術館には黒田清輝の「桜島爆発図」が収蔵されています。

黒田清輝と弟子・山下兼秀の銅像

黒田清輝誕生の地から少し離れた商工会議所ビル(アイムビル)の前には、そんな大正噴火にまつわる銅像があります。

桜島大噴火をスケッチしに向かう黒田清輝と弟子の山下兼秀の銅像
無駄にリアル(笑)

2体の人物像は、桜島大噴火の様子をスケッチするために向かう黒田清輝と、その弟子の山下兼秀を表しています。

山下兼秀は黒田清輝に学んだ洋画家で、大正噴火の際には黒田に随行して桜島を描き、後に「桜島爆発図」などの作品を残しています。

黒田清輝の生誕地を訪ねたあとにこの銅像を見ると、鹿児島に生まれた画家が、後に故郷・鹿児島の象徴ともいえる桜島の大噴火を記録していたことにもつながります。

銅像の前にある商工会議所ビル(アイムビル)
銅像の前にある商工会議所ビル(アイムビル)

銅像の後ろに見えるのが商工会議所ビル(アイムビル)。

現在は大きなビルが建つ街の一角ですが、ここに黒田清輝と山下兼秀の姿をした銅像が立っています。

今はバス停になった生誕地

黒田清輝が生まれた場所は、現在では高見馬場バス停付近となっています。

もちろん、黒田清輝が生まれた当時の建物がそのまま残っているわけではありません。

それでも、石碑や解説板によって、ここが日本を代表する洋画家の生まれた場所だったことを知ることができます。

生誕地そのものに大きな遺構が残っているわけではありませんが、街中を歩きながら黒田清輝と鹿児島のつながりをたどることができる場所です。

普段何気なく通り過ぎてしまいそうな高見馬場ですが、ここから日本の近代洋画を代表する画家が生まれたと思うと、ちょっと見方が変わる場所でした。

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