大浦地区は太平洋に面した山あいの集落で、肝付町の中でもかなり奥まった場所。
現在では人口も少なくなっていますが、かつては林業や炭焼きなどが盛んで、多くの人が暮らしていたそうです。
校門に小学校と中学校の校銘板

左側の門柱には「大浦小学校」の校銘板が埋め込まれています。

そして右側を見ると、こちらには「大浦中学校」の校銘板。
小学校跡として訪れてみましたが、小中学校として使われていたようです。
実際、資料でも「大浦小中学校」として紹介されており、大浦小学校と大浦中学校はいずれも同じ場所で閉校となっています。
大浦小学校(中学校)の沿革
1954年(昭和29年)の独立時の動き
小学校:岸良小学校大浦分教場 ➔ 船間小学校大浦分校 ➔ 1954年に「内之浦町立大浦小学校」として独立
中学校:1947年(昭和22年)に設置された「岸良中学校大浦分校」 ➔ 1954年に「内之浦町立大浦中学校」として独立
1990年(平成2年):児童・生徒数の減少により、小学校・中学校が同時に休校。
2011年(平成23年)9月:肝付町の発足に伴い、小学校・中学校ともに同時に廃校。
このように、小学校・中学校がそれぞれ別の学校の分校だった状態から、1954年に揃って同時に独立したことで、最初からひとつの敷地内に併設された「大浦小中学校」としての歩みがスタート。
学校が開校していた時代は、小学校・中学校共通の「大浦小中学校校歌」が1つの校歌として制定され、集落の子供たちに歌い継がれていました。
校舎は二階建て

校門の奥には、二階建てのコンクリート製校舎が残っています。
外から見るだけでも、かつてここが学校だったことが分かります。

廊下を外から覗いてみると「職員室」の札が見えました。

さらに別の場所には「保健室」の札も。

窓越しに職員室の様子も見ることができました。
図書館と思われる建物

校舎の隣の図書館らしき建物、窓から本が並んで見えてます。
廃校になった学校ですが、こうして教室や施設の名残を見ることができると、ここで子どもたちが学校生活を送っていた頃の様子を少し想像できます。
閉校記念碑は見あたらず…

校庭には「負けるな」と刻まれた石碑がありました。
最初は閉校記念碑かな?と思ったのですが、よく見ると「創立八十周年記念碑」で、下には「昭和59年11月18日建立」と刻まれています。
閉校を記念したものではありませんでしたが、長い学校の歴史を伝える石碑として残っています。
大浦地区にある八幡神社

大浦小学校跡の近くには八幡神社もあります。

鳥居と小さな祠があるだけですが、大浦地区の歴史を感じさせる場所です。
訪れたときはあまり手入れされていないようにも見えました。
大浦は現在では住民の高齢化が進み、住民数もかなり少なくなっている集落です。
肝付町観光案内所の記事によると、林業などが盛んだった頃には300人以上が暮らしていた大浦も、2019年時点では10人足らずとなっていました。
そんな現在の大浦を考えると、神社や学校跡の維持管理も簡単ではないのだろうなと思います。
大浦地区加入電話開通記念碑

小学校跡から少し上へ行ったところには、ちょっと珍しい石碑がありました。
「大浦地区加入電話開通記念碑」、「昭和58年8月10日」と刻まれています。
電話開通の記念碑を見るのは今回が初めてでした。
今では電話があるのが当たり前ですが、当時の大浦にとっては、それだけ大きな出来事だったのでしょう。
「おらの村にも電話が通ったぞー!」
…みたいな感じだったのかな、なんて想像してしまいます(笑)。
山と海に囲まれ、かつては船が主要な交通手段だったという大浦地区。
電話が開通したことも、集落にとっては大きな変化だったのかもしれません。
大浦集落への入口

大浦集落へ続く道の前には、こんな立て看板がありました。
「これより大浦集落 高齢者多数」
「うつすな、もらうな、持ち込むな」
「地元関係者以外どちら様に限らず集落への出入りを固く禁する」
と書かれています。
訪れたのは2021年10月。
まだ新型コロナウイルスの影響が大きかった時期で、集落には高齢者が多いことから、感染を持ち込まないための注意書きが掲げられていました。
この看板を見て、今回は集落の中まで入ることはせず、学校跡周辺を見て回りました。
平家の落人伝説が残る土地
今回訪れるまで知らなかったのですが、大浦地区には平家の落人伝説も残っています。
肝付町観光案内所の「大浦の昔のおはなし」でも、大浦は山と海に囲まれた「平家の落人伝説の残る土地」と紹介されています。
今回は集落の中まで入ることはできませんでしたが、学校跡だけでもいろいろなものが残っていて、なかなか印象に残る場所でした。
訪問日:2021年10月


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